脳のCHAOSを考察する。

発達症併発(自閉スペクトラム・ADHD・LD)、共感覚を持つ私の見ているもの

感覚過敏について。

 感覚過敏は日常生活の中で非常に厄介なものですが、人がどのような感覚世界で生きているのか体験出来ないため、自分が感覚過敏なのだと気付くのは難しいです。

 みんな不快な感触や不快な音があるのに自分だけ耐えられなくて、すごく忍耐力のないワガママな人間なのだと自己嫌悪に陥ったりしていました。

 

 発達障害の人に感覚過敏がしばしば見られる、と聞いて初めて、これはそうだったのかと驚き、他の人の言う「不快」とは違うものなのだと知って少し安心しました。

 その点で安心しても生活するうえでの不安は変わらないのですが。

 

 

 聴覚過敏については前にこんな感じで書きました。↓↓↓

misa4.hatenadiary.jp

 

 今回は触覚過敏についてです。

 

肌を伝う水

 私は子供の頃から水が肌を伝う感触が大嫌いで、寒気と痒みに襲われ、必死で拭うのをやめられませんでした。

 今、やっぱりその感触は嫌いですが顔以外ならなんとか耐えられます。顔を流れる汗などは、「ぎゃああああぁぁ」と叫ばんばかりにガシガシ拭います。お風呂でも、少しの水滴が顔に流れ落ちてきたら手でいつまでもしつこく拭っています。

 化粧水は、かなりとろみのあるタイプでないと注意していても顔につけた途端流れることがあるので、選ぶ時に成分より粘度に着目します。流れるシャバシャバタイプの物だと、肌に伝う感触が不快で「かゆい!これ肌に合わない!」と勘違いしてしまうこともあります。

 

 

服に縫い付けられている化繊のタグ

 服のタグが苦手なのは、大人になって少し落ち着きました。今では着いたまま着用していることが普通になっていますが、子供の頃は自分でタグを取っていました。親に言うと「気にしすぎ」「ワガママ」とか言われるし、取ってくれてもチョンとハサミで切るだけで、残ったところが余計チクチクするので、自分でなんとか糸を抜いて丁寧に除去していました(不器用なため服の襟元には大抵私の指から出た血の跡がついていました)。

 

 

アイスを買うと無料で貰える木のスプーン

 大人になった今でも、あのスプーンが怖いです。コンビニでアイスを買って、欲しいと言ってないのに店員さんが勝手にあれを袋に入れてくれた場合、袋を持つ手が震えます。家に帰ってアイスを冷凍庫に移したら、あれに触れないように袋ごとゴミ箱にすぐポイします。

 あれが口に触れることを想像しただけで寝込むことが出来ます。あれしかスプーンがないのなら、アイスを食べるのを諦めます。あ、フタをスプーンにして食べるという選択肢があるな。

 

 

 

幼い頃は人に触られる感触も嫌でたまらなかった

 

 子供の頃は異常なくすぐったがりで、抱っこされるのも感触が嫌いですごく不機嫌になっていたし、自分から触るのはいいけれど人に触られることはめちゃくちゃ拒否していました。父が私の幼児の時のエピソードとして、「人が頭を撫でようとしたら、真剣白羽どりのように寸前で手を受けて止め、鋭い目で睨んでいた」と話していました。

 動きが緩慢で鈍い私がそんな俊敏で鋭い対応をしたということは、かなり触られる感触が嫌だったのだと思います。

 

 

 

 

どうやってでもそれから逃げたい、どうしてもそれから逃げられなければパニックになる、泣いてしまう、それくらい不快な感触や音があるなら感覚過敏かも・・・

 

 他にも細かく言うと色々あり、子供の時なんかは世の中に不快な感触の物が多くてすごくしんどかったのですが、今はずいぶんマシになっています。マシになった理由はわかりません。

 

 

 

 

 接触過敏や聴覚過敏のことを書くと、常に何かを「イヤイヤ」言って拒否しているようですが、感覚過敏と同時に、感覚鈍麻というものも持ち合わせています。やたらと痛みに対する耐性が高かったり暑さ寒さに無頓着だったりして、人が拒否するようなものを普通の顔をして受け入れたりします。

 そしてそれもまた、私だけではなく発達障害を持つ人にありがちなのだそうです。

 

 感覚鈍麻についても、また書こうと思います。

長所っぽいところ。

 私の面倒くさい脳にもいいところがあります。

 関係のないことを次々関連付けて関係があることかのように錯覚することがあまりないのです。ひとが自動的に、「この単語が出てきたら次はこう」などと予測したり、「これにはこれしかない」というような「当たり前」という判断が全て手動で行われるため、手動でそれをしないことを選択すればその偏見を持つことがないのです。

 

 

 

 シャーロック・ホームズの物語で、壁に書かれた「RACHE」という文字から警察は「RACHEL」という女性の名前を書こうとしたものだと推測するけれど、ホームズはそれが「RACHE」で完結した単語、ドイツ語で「復讐」を意味するメッセージだと気が付きました。

 この場合、警察が定型発達のひとの物の考え方です。あと一文字足したらレイチェルだ!と、勝手に余計な文字を足してそれが正しいと思い込む、定型発達として自然な思考です。よく見る単語がRACHELだったものだから、自動的にそっちに結びついてしまうのです。

 

 ホームズが自閉症かどうかは別にして、彼は自動的に自分の知っているものと結びつけず、何の偏見もなく全ての物事と切り離して考えられる脳を持っているのだと思います。

 

 

 

 私は、推理力はないのですが、やはり物事をやたら自動的に関連付けるということをしないので偏見から見落とすということは少ないかもしれません。

 関連付けはもちろんしますが、自動ではできないので「関連付けをしない」という選択が出来るのです。

 

 

 錯視もあまり起こりません。図形と図形、背景などを全体的に一つの物として関連付けて見るのではなくバラバラに注目するので、周囲の図形や背景に影響されて大きさが違って見えたりすることが起こりにくいのだと思います。

 

 定型発達の人の脳は、自動で図形に空間があればそれを補い、図形と背景をことごとく関連付けたがり、自動で自分の記憶をフル活用して「よく知っているもの」にしたがります。

 

 これが、日常生活では便利なことなのですが、大切なことを見落としたり勘違いにも繋がったり(しかも確信をもって勘違いするため訂正がききにくい)することもあるのです。

 悩みごとの出口が見つからない、幼い子供のやることがいちいち意味不明でストレスになる、詐欺に遭うということになるのではないかと思います。

 

 

 自閉症脳は人の言葉をそのまま受け取るので詐欺に遭いやすいようにも思えますが、詐欺師のほとんどは定型発達の人をうまく騙せるように、自動思考を利用した心理戦で仕掛けてくるので、自動的に「こう言われたらこう」と流されて行かない手動脳の持ち主は騙しにくいのではないかと私は思います。

 詐欺師のうまい話し方の全体的な印象ではなく、断片断片が気になって「あれ?なんかおかしい」と気づくのではないかと、私の経験からもそう感じます。

 

 

①「あの人は細かいことを気にしてうざい所があるが、とても優しい」

②「あの人はとても優しいが、細かいことを気にしてうざい」

 この2つの文章から、①は良いことを言っているように聞こえて②は悪口を言っているように捉えるのが普通らしいのですが、私の脳は一つ一つの情報を切り離して考えるのでどちらも同じ印象を受けます。だから意図が読めないのでしょうけど、言葉の順序マジックによってごまかされることもあまりないかもしれません。

 

 

 

 

 でもまぁ何をどう言っても、自動でなんでも考えられ行動できる脳のほうが高性能で素敵で羨ましいことに変わりないのですが。

 

 

ちっぽけな視点。

 曖昧な質問に答える能力がありません。

「最近、どう?」に対して「うん、まあまあ」という定型の会話を覚えてからだいぶ生きやすくなりました。

 どう?て何?

 

 

 初めての海外旅行から帰って友達にお土産を渡すと

「インド、どんなだった??」と質問されて、すごく考えたあと

「南京錠が、角がなくて丸かった。どこで見た物も全部。」

と答えると、なんとも言えない反応をされました。

 どんなだった?とは?

 

 

 「あなたにとって、〇〇とは?」

の質問に答えている人の映像をテレビで見るたびに感心しています。子供の頃、「自分にとって家族とは」というテーマで作文を書くようにという宿題を出されてすごく困りました。とりあえず家族ひとりひとりの紹介をしておきましたが、先生の求めていたものとは違ったようです。

 ちょっと何言ってるのか全然わからない。

 

 こういうふうに答えたら変な顔されない、という法則がまだ見つからないです。

 

 

 

 

 

 どうやら、ざっくり訊かれた時はざっくり答えればいいらしいのですが、私は物事を全体的に捉えて大まかに表現することが出来ないようです。細かいところにしか目がいかないのが、質問する人の思惑とズレる理由みたいです。

 

 

 砂の一粒一粒を見てその違いには気が付くけど、その砂がある場所が校庭ということには気が付かない感じ。

 

 

 ざっくりした距離、ざっくりした時間、それらを答えなければいけない質問も苦手です。細かく答えてしまいます。6分半くらい、と言うと「細かいな!『くらい』の意味ないやん!」と笑われますが、6分半を5分ちょっととか数分とか言っていいのかどうか状況によって判断出来ないのです。

 

 

 

 ヒトとの会話が楽しめないです。

 

 

線と点。

 ひとは、全ての情報を結び付けてそれらを処理し、理解し、過去現在未来の自分の糧にしていくようです。それらの全ての情報は線で繋がり、蜘蛛の巣のように複雑に美しく広がり続け、年齢を重ねるごとに臨機応変が様々なところで出来るようになり、新しいシチュエーションへの対応がよりスムーズになるようです。

 

 

 私は、情報を線で結ぶことが苦手です。すべての情報は点で、その点を手動でカテゴリ分けして、なんとか類似のものを探して集めて脳のファイルに放り込みます。

 カテゴリ分けされたファイルは、ひとつひとつ独立していて、繋がりを持ちません。

 

 その場で今起きていること、その場にいる人の状態を見て、類似の状況が起きたことがなかったかファイルの検索をします(手動)。「これっぽい」と判断したファイルが見つかれば、そのファイルの状況の時に取ると決めている行動を実行します。

 

 

 この手動の検索は、間違えることが多々あります。なぜなら、カテゴリ分けが精密でなく、人の細かな表情や一人一人違う言葉の使い方、ちょっとした状況の違いに対応できないからです。極めて機械的、古いタイプのコンピューター的です。

 

 

 

 線で繋がってると、過去の経験を手繰り寄せて、しかもこことここが重なり合って絡まって、などと線と線に相関性を持たせて、ちょっとした状況の差も、すぐにネットワークに組み込まれて過去の自分の学んだそれらの中になじんで織り込まれるために(しかもこれらは全て自動?どれだけ高性能?)人間らしい柔軟な対応ができるのではないでしょうか。

 

 

 ひとを、「個人個人、全て違う人間」と考えるとファイルが膨大な量になって大変なため、出会った全てのひとをカテゴリ分けしてどこかのファイルに放り込みます。

 カテゴリ分けされたファイルには、ひとつひとつ、「このファイルの中に入っている人への私の対応マニュアル」が設定されています。

 それらは、年齢を重ねて学んだことが増えると、「より良いマニュアル」としてたまに更新されます。

 

 「この人はどのファイルに入れたらいいのかわからない」というひと現れると、その人を入れるべきファイルが決定するまで「保留」というところに置いて置きますが、その間私はそのひとに対して挙動不審というか、なんともおかしな、人格の安定しない態度を取ってしまうことになります。

 

 

 くどいようですが、それらは全て手動で行われています。

 

 

 この面倒な脳に、いいことはないのでしょうか?今度はその「いいこと」について考えてみようと思います。

 

成長しない。

母「弟をちゃんと見ておいてね。」

私(5歳くらい)「はーい。」

・・・

母「ちゃんと見ててくれた?」

私「うん。(ティッシュを全部箱から引っ張り出して散らかしている弟を指さす)」

母「見てろって言ったのに何でこんなことになってるのよ!!!!」

私「?見てたよ。」

 

 

 

母「お風呂のお水の量見て来て。」

私(中学生)「はーい。」

 「いっぱい入ってたよ。」

・・・

母「いっぱい入ってたのになんでお水止めなかったのよ!!!!床が水浸しやないの!!!」

 

 

 

母「みさ、お塩とれる?」

私(20代)「うん。」

母「・・・じゃあ、お願いできる?」

私「お願い??」

母「とって!!!お塩!!!!」

私「あぁ。最初からそう言ってよぅ。」

母「いいかげん、わかるようになってよ!!私が早死にしたらあんたのせいだからね!!!」

 

 

30代の私は、母となるべく接触しないことで彼女が長生きできるようにしています。

親孝行。

 

 

報酬と罰。

 私の両親が私を育てにくかった理由のひとつに、「ご褒美に釣られない」ということがあったようです。

 

 私はお菓子をもらえるからとか、たくさん褒めてもらえるから、という理由では何かをすることが出来ませんでした。姉が毎日何かお手伝いをしてシールをもらったりして喜んでいるのがよくわかりませんでした。ラジオ体操のスタンプを押してもらって充実感を味わうなんてことも意味不明でした。

 

 私はいつも「不快の回避」「それをしていると脳がいい感じ」のどちらかの理由で動いていました。

 

 ご褒美だけではなく、「結果が出ることによる満足感」は子供の頃は全くなく、今もある程度あるものの人より希薄かもしれません。

 

 

 ものを作るのが好きで、しょっちゅうその場にあるものでしょうもないものを作っていました(それをしていると脳がいい感じという動機)が、作る過程が好きなだけなので出来た作品そのものに一切興味がなく、何時間も何日もかけて作ったものでも捨てられることに抵抗がありませんでした。

 

 小学4年生の時にいつも私が作ったものや描いたものに落書きしたり踏んづけたりして私をイジメた気になっている女の子たちがいたのですが、申し訳ないことに、何も感じていませんでした。

 

 細かいピースをつなげて壮大な一枚の絵に仕上げる、というパズルの楽しさはよくわかりません。だんだん絵が仕上がって来るのは素敵だそうですが、私はピースとピースをはめ込む感触が好きなだけなので、無地のパズルで充分です。(どう仕上がるかという結果に無頓着)

 

 だから、達成感だとかこれをすればこういう結果が出るだとか、やれば最後にお菓子をもらえるだとかいうことではやる気が出せませんでした。

 

 

 こういう私に、今日はテキパキと動いて時間厳守するように、とか、ちゃんと皆と同じように行動するように、など、どうしても言うことを聞かせたい場合、親は恐怖心を持たせるしか方法がないと考えたのだと思います。

 報酬で動かないのなら、罰を与えると脅すしかない、と考えるのは当たり前かもしれません。

 しかし、どんな罰を与えられるより不快で出来ないことが多くあったし、親の指示の意図が読み取れなくて「何故」それを「どのように」したらいいのかわからなくて出来ないこともあったので、結局は「恐怖による躾も出来ない」と親を途方に暮れさせました。

 

 感覚過敏によってどうしても我慢できない不快なこと以外は、子供だから理論は通じないと思わずに、全部論理的に意義などを説明してくれたら納得してしっかり言うことをきいたのだけれど、と思います。

 そう考えると、罰を与える手間もリスクも、褒美を与える金銭的負担もなくて、非常に躾けやすい子供になり得たのではないかと思うのですが、子供の時にそんなことを自分で要求出来る能力は持っていなかったのでしょうがないです。

 

 

 

 

 余談。与えられた罰のせいでお腹が空き過ぎて、普段何にも釣られない私が「お菓子をあげるからついておいで」と知らないおじさんに言われてついて行ってしまい、怖い思いをしたのは皮肉な話です。

 

Is this your pen?

「人の表情や言葉のニュアンスから色々なものを読み取ることが出来ない」の具体例

 ASD最大の特徴と言える「共感が出来ない」「人の心理がわからない」ことによるコミュニケーション障害。「人の言葉や行動の意図が読めない」ということなので、普通の感情がないわけではないのですが、簡単な説明しかしていない本やサイトでは誤解を招きかねない書き方がしてあるように思います。意図が読めないとは、どういうことか、あくまで私の場合ですが、具体的に考えてみます。

 

 

「これは、あなたのペンですか?」

この疑問文、シチュエーションによって求めている答えが違います。

 

これは、あなたのペンですか?」

「あ!それです!それ!」

 

「これは、あなたのペンですか?」

「はい、私のです。」

 

「これは、あなたのペンですか?」

「そうなんです、こう見えてもそれ、ペンなんですよ!可愛いでしょ?」

 

 

↑は、定型発達の人の答え方。私は、どの場合でも

「はい、これは私のペンです。」

と答えると思います。シチュエーションと言葉を結び付けて、相手が何を訊きたがっているのか、咄嗟に判断することが出来ません。

というか、人の話すことはいつでも聞こえた言葉以上に色んな意図があるということを頭で理解していても、実際のコミュニケーションの中で忘れていることも多く、何の疑問もなく相手の言葉を繰り返すだけになることが多々あります。

(「これ」を「それ」に言い換えるというようなちょっとした距離感の違いから必要な応用も忘れがちです)

 

 

 

世間話も苦手

「ただその場の空気を良くするための話題振り」と、「本当に私に尋ねたい、伝えたい話」の区別がつきません。

お天気の話はさすがに、「暑いねー」に対して「蒸し蒸しするね」と少し言葉を変えたりして同意すればいいと今はわかっていますが。

 

「元気?」

の質問に、真面目に詳しく答えてしまう傾向があることに自分で気が付いてはいるのですが、どうしてもやめられないまま34歳になりました。

私は、相手が嘘で「元気だよ」というのが悲しいからです。そんな無理していらないからです。

心配かけるのは悪いから元気と答えるのが礼儀だったり、体調のことに深入りしてほしくないというのもわかりますが、「元気だよ」を信じて普通に接していたら後であの時とても具合が悪かった、などと何かで知って「立ち話せずに早く帰してあげたら良かった」と落ち込むことが何度かあったのです。

相手のちょっとしたニュアンスから本当の体調を察する力のない私としては、何でも正直に言って欲しいという気持ちが強いです。

 

 

 

 

 

私に対して社交辞令や気遣いの嘘は本当に不要なのですが、普通の人はごく自然にそれを当たり前のこととしてするので、私にだけやめてもらうというのは出来ない相談らしいです。

「気遣いをしない自分」「歯に衣着せぬ言い方をする自分」のことが嫌になるらしいのです。

 

とても難しい問題です。

 

私は、そのストレスを我慢して私に合わせてよ、とはもちろん思いません。

私が言葉の通りにしか受け取ることが出来なくても許してよね、とも思いません。

みんなに理解・協力をしてほしいとは思いません。

 

私が定型発達のひとのことを理解していないのに、一方的にこちらのことを理解してくれとは言うことは出来ません。

 

 

ただ、適応する努力を怠っていると思われることは悲しいです。

発達障害を持っているひとは、一見、とてもマイペースなのだと思います。

自分のペースで、好きなときに好きなように動いて、好きなものにだけ集中して、嫌な物は全力で拒否して、わからないものはいつまでもわからないままで。

 

一見自分勝手に好きなように生きているように見えるけれど、この世界は、いつでも多数派(定型発達)の土俵です。定型発達のひとの決めたルールで回っています。

初めて社会に出た時(ほとんどの場合幼稚園や保育園)から、そのルールをなんとか理解しようと、脳をフル回転させ続けて生きているのは間違いないです。

 

 

それでも成果が出なくて人に迷惑をかけたり傷つけたりするので、自分の努力が足りないとか人に比べて怠け者だから自分はダメだと劣等感でいっぱいになります。

 

 

発達障害を持っているひとたちはゆっくりマイペースに、またはADHDのように好きなように動き回って自由人、みたいに見えたりしますが、本当にマイペースに生きているひとはなかなかいないんじゃないかと思います。

 

 

 

今度、非常にマイペースにおっとりとしているように見られる私が、人々をジッと見ながら何を研究していたかというのを具体的に書きたいと思います。

 

 

 

 

オートマティックは素敵。

人の意図を読み取れないのではなく、読み取るのにとにかく時間がかかるだけ

 「だけ」と言ってもまぁ、結構深刻な問題ではあります。

 子供の頃は確かに、自閉症スペクトラム特有の、人の表情や言葉から意図を読み取れないことで困りました。いつもよくわからない理由で急に怒られるものだから、ビクビクオドオドとしていました。

 たぶん相手が爆発する前にその予兆的な何かを(優しい警告等)私に投げかけてくれていたのだろうけど、その時点でそれを理解出来ないためにしょっちゅう怒鳴られる羽目になっていました。

 

 大きくなるにつれて、ちゃんとわかるようになります。ゆっくりではあっても、こういう言い方をしている時は優しい表情でもかなりイライラしていて怒る寸前なのだな、とか。

「かかとを踏まずにちゃんと上靴を履けないなら、もう履くな」

は、かかとまで上靴に収めてちゃんと履きなさい、という意味で、その場ですぐ上靴を脱ぐと先生が本気で怒ることも、小学校中学年くらいには理解しました。

 

 大人になると、京都人の「ぶぶ漬けでも食べて行かはりますか(まだ帰らんのん?はよ帰れや)」のような言葉が世の中にたくさんあることがわかっているし、何度も失敗をするうちに掴んだパターンとして人の意図をかなり理解できるつもりでいます。

 

 

 ただ、「パターンとして記憶→理解」しているだけなので、それは永遠に自動的に自分の「感覚」に取り込まれることはないように思います。

 

相手の言葉を聞く「いいのよ、後片付けの手伝いなんか。座ってゆっくりしていて」

まずそのまま理解(手伝わなくていいのかぁ。私にゆっくりしていて欲しいのね)

状況などを一度分析する(たくさん洗い物があるし、客とはいえ何かするべきでは?)

(でも手出ししてほしくないのかもしれない)(客に水回りを見られたくない可能性も)

記憶を検索

過去の経験を思い出す(これは「遠慮」というやつだった。「建前上」ひとはこういう場面で一度はこう言って断るのだ)

現在の自分が取るべき態度を考える(何度も「いや、手伝う」と言って、それでも断られた場合に、手出ししてほしくないのかもという可能性のもと引き下がろう)

 

 全手動。

 

 上記の場面での、実際の私の行動は以下のようになります。

 

友人宅でランチをいただいた後、友人が立ち上がると同時に食器をキッチンに持って行くのを手伝おうと立ち上がる

「手伝いなんかいいのよ、座ってゆっくりして」と言われ、それを受け入れて一度座る

脳がフル回転して相手の言葉や表情、状況の分析を行っているためそのまま制止

分析が完了し立ち上がってキッチンに向かう

「手伝うよ」

 

 友人は驚きます。何の時間差なのかわからず戸惑った表情を見せます。そこで、その表情を見た私の脳内はまたそれを分析し始めます。「あれ?私の判断は間違っているの?」と。そこでまた「あ、いつもの私の対応が遅れたせいで起こる『なんで今更?』という意味の表情か」と理解します。

 

 

 

 今は、「手伝うよ」→拒否される→それでも「手伝わせて」と言う→友人なら3回程で引き下がる。姑(今はいませんが、離婚する前)なら100回断られても引き下がってはいけない。というふうにパターン化して覚えているので、「手伝うよシチュエーション」におけるコミュニケーションの滞りは起こりません。

 

 

 

 ヒトは自動的に、意図を読み取る力というのを身に着けるらしいのですが、その能力を持って生まれなかった者は手動で身に着けるしかないのでスピードが圧倒的に遅いです。

 

 

 今、自閉症と脳の関係の本をいくつか読んでいます。とても興味深いです。そういうものを読めば読むほど、定型発達のひとの脳という物がどれだけ高性能に出来ているのかということを知って感動します。すごいことが自動的に理解できるのだな!と憧れのピンクの溜息が漏れます。

 

 

 

 脳!

人間ニツイテノ勉強タノシイヨ

 奇跡的に入学出来た高校を一年で退学になったような私が、今、大学院受験対策のためのWeb講義を聴いて学習しています。

 もちろん私は大学院受験は出来ないのですが、さりさんが受験するので、勉強しているのを横で見ているだけでは勿体ないから私もノートを取ってしっかり講義を聴くようになりました。

 

 ノートの取り方をさりさんに教わって、初めて読みやすく整理されたノートを書くことが出来るようになりました。ある程度は学校で教わったはずなのに、なぜ出来なかったのかわかりませんが。

 

 

 臨床心理学を勉強しています。とても興味深く、おもしろいです。

 社会心理学で集団の心理などを学ぶと、「自分はそのような時にそのように行動しないな」と思い、人との違いがどこにあるのかを知ることが出来ます。

 

 発達心理学を学ぶと、自分が発達のどのあたりでつまづいているのかを知ることが出来ます。

 

 他者(定型発達者)がどのように世界を見て、行動しているのかが少しわかるようになります。

 

 

 私は昔から、「科学的な事実」を知ることが好きです。曖昧なものが苦手な脳です。「人の心」なんていう曖昧なものは物凄く苦手ですが、心理学は科学なので、大好きです。

 

 精神科でいつも自分の状態がどんなものなのか、すごく知りたかったのに、どうせわからないからと思われたのだと思いますが曖昧な例え話みたいなのしか教えてもらえませんでした。

 

 脳の話を聞くとスッキリします。あー、脳のそこの部分が弱いのだな、と理解すると嬉しいです。

 

「障害は個性だから」なんて言葉は嫌いです。そんなことより、自分のことも定型発達の人のことも科学的に知って理解したいです。

 人は千差万別なのだから、科学的になんてわからないとかいうレベルの話は、私には高すぎて、まだまだ届かないのです。

 

 

 自分の脳のカオスについて考察するのに役立てるため、今後も一生懸命勉強を続けます。

 

瞬間湯沸かし器にはなれない。

 私は日常、ほとんどカッとなったりしません。何か出来事があったらそれを手動で情報処理をするため、怒りに繋がるまでに時間がかかってしまうからです。

 「これは腹が立つな」と思った時にはもう怒るタイミングとしては遅すぎる(相手がいなくなっている、話題が次に移っているなど)ので、大抵その怒りは表出することなく終わります。

 

 

 横断歩道で、私が歩いている時、見知らぬ自転車に乗った人が急に怒鳴りつけて来たことがありました。

 その時一緒に歩いていた私の姉が「はぁ?!」と叫び、その自転車の人を追いかけ、「なんでこっちが怒鳴られなあかんの?私たちただ横断歩道をルールに従って普通に歩いてただけなんですけど!!!」と抗議しました。

 

 その自転車の人(おじいさん)は、姉の剣幕に圧されつつもなんだかゴニョゴニョと文句を言っていました。姉は私に「あんたも何か言いーや!私たち悪くないのに悔しくないの?!」と言いましたが、私はその時事態を把握するために脳をフル回転させていたので何も喋ることが出来ずに黙っていました。

 

 

 脳の中で映像を巻き戻し何度も記憶の中の映像を見直して、私たちの死角からおじいさんが自転車で、横断歩道に向かって直角に勢いよく突っ込んできたことを確認しました。

 その後、おじいさんの音声を何度も巻き戻して意味を考えます。

「あb#*+>ろg!kぃつけろあぉが!!!」

    ↓

「危ないやろが!気ぃつけろ、アホが!!!」

、かな???

 あれ?私たちに気をつけようがあったかな?あの状況で、まさかあんな風に自転車が突っ込んでくるなんて、予想も出来なかった(本当に予想も出来ないことだったのか?と記憶の映像を再確認することをここで数回)。ということは、おじいさんが気をつけないといけなかったのではない???

 

 ははーん、姉が怒るのも無理ないな、と思い、私も怒られる筋合いのないことでアホと言われたことに少しムカッときました。

 

 私が「ムカッ」という感情を覚えた時には、おじいさんは自転車で遠くに走り去っていました。

 

 

 

 不快な音や感触によって瞬間的に「ぎゃぁぁぁ」と爆発することはありますが、「出来事」によって感情を起こすのは時間がかかります。

 嬉しいという感情はあまり考える必要のないシンプルな出来事からくることが多い(気がする)ので割と早いです。悲しみは、「こういうシチュエーションで過去にも悲しくなった」という例があればすごく早くその感情に到達することができます。

 怒りは、間違った怒りを相手に感じてはいけないと思うからか余計に手動処理の手間暇をかけて精査してしまいます。

 

 

 結果、穏やかな人に思われるのは良いのですが、ストレスのやり場を失うことが多いです。

 

 

 

 何度も使う「自動・手動」という言葉ですが、そのうち手動思考について詳しく書こうと思います。