脳のCHAOSを考察する。

発達症併発(自閉スペクトラム・ADHD・LD)、共感覚を持つ私の見ているもの

数字を理解し、そして闘う。

1さん、2君、3ちゃん

 

 算数を習いだした時に、先生の言ってることが全く理解出来なかった理由は、「数字」が何を表しているのかをそもそもわかっていなかったからです。

 

 数とは日常でもちろん触れ合っていました。お風呂で父が「いーち、にーぃ、さーん」と湯船に私を肩まで無理矢理浸けて数えたし、姉が「私は年上だからポッキーを15本食べるけど、みさは4本ね!」などと言っておやつを分割したので、「数」という概念は育っているはずでした。

 1234567890、これらもよく目にする記号だとは意識していました。

 

 ただ、これら数字とかいう記号に何らかの操作を加える、ということがピンときませんでした。

 

 「手におはじきを1つ持って、そこにあと2つおはじきをもらったら、3つになります。」と、実際におはじきを渡してもらうと、これはわかります。

 「これを式にして、1+2=3、と書きます。」と言われると、急に数字が見知らぬものに変わります。

 

 私は数字を

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こういうイメージで見ていました。

 

ところが本当は、

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こういうことだったのですよね。

 

 何の説明もなく「1」「2」「3」と書いてあるときでも、「(何かが)1(つ)」「(何かが)2(つ)」だということを理解すると、色んな事がスッキリしました。

 

 しかし私がそんなことに気が付いてスッキリ感動している時に、同じ年の子供たちは繰り上がりや繰り下がりの計算をマスターするため日々計算練習を繰り返し行ってメキメキと実力をつけていました。

 

 私は遅れをとったものの、もう数の認識はバッチリだから何でも出来そう!と自信満々に計算問題に取り組みました。

 

 

それなのに、いつまで経っても一の位と十の位の位置を揃えて正確な筆算式が書けない。それどころか足し算をやっているのか引き算をやっているのかも見失う

 

 +や-を書く位置を間違ったりしておかしな答えが出たり、繰り上がった数字をちゃんと書き足してもそれを放置して計算したり、一桁同士の計算でもずっと指を使ってたり(それは今も)、やっぱり算数が普通に出来るレベルには到達しません。

 

 掛け算や割り算が出てくると、もう何をやればいいのかわからなくて出来てた簡単な計算も出来なくなりました。

 ×と書いてあるのに足したり一の位は引き算したのに十の位は足し算したり、わやくちゃです。

 

 

 それに加えて、文章題を解く時に数字以外のいろんな設定が気になって気になって計算どころじゃなくなる、数字を記憶する能力が極端に低い、という問題を抱えていて、私は早いうちに算数を諦めました。

 

 

 

 

 

 

 私は記憶力はいい方なのですが、数字とアルファベットはなぜかものすごく記憶するのが難しいです。

 

 大人になって心理検査と一緒に受けた知能検査で、口頭で聞いた4桁の数字も記憶することが出来ないということがわかりました。3桁でも順序がぐちゃぐちゃになります。この原因はまた今度絵で表現しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幼少期から不器用で憂鬱を感じていた。

力を入れる加減と向きが調整できない

 

 幼稚園で絵を描くのと工作する時間が嫌いでした。

 

 絵の具をパレットに出すのが苦手でした。なぜか気が付くと体中絵の具まみれで、最初どんなに力作を描こうとしていても画用紙が意図しない色でいつの間にか汚れまくっていてやる気がなくなりました。

 クレパスはすぐに折れます。落とすからです。お道具箱から出す時に箱ごと落ちるし、一本取り出す時にその隣の色のクレパスが飛んで行ったりもするし、描いている途中に手からすり抜けて落ちるし、お絵かきの時間は私ひとり忙しく椅子から下りてまた座る運動を繰り返していました。

 

 工作でハサミを使うのが本当に憂鬱でした。ハサミを最後までパチンと閉じないで、途中で開くのだと先生に教えられましたが、握る力の調整がうまく出来ない私はいつもパチンと刃先が合うまで力を込めてしまいます。ハサミの開き方もぎこちなく、他の子の滑らかなハサミさばきと明らかに違うことが自分でもわかっていてすごく嫌でした。

 紙を回しながら円形に切るとかいう高等技術は今も身に着いていません。

 

 

スプーンとフォークが正しく使えない

 

 ハサミが下手なことは、親には特に気にされませんでした。両親とも不器用だったので、子供ってそんなもんじゃない?くらいに軽く受け止められていたようです。

 でも食事の時にスプーンがうまく使えないことは、さすがに悩んだようです。3歳を過ぎるとお箸をマスターする子もたくさん出てくるのに、スプーンとフォークがこんなに下手だとお箸なんてまだまだだと、母は焦って一生懸命私がスプーンをうまく使えるように指導しました。

 右手に持たせているからいけないのか?この子は左利き?と左で持たされてもうまくいきませんでした。お皿の中身は私がスプーンですくうたびにどこか遠くへ飛んで行きました。時にはスプーンもなくなりました。

 

 右手でスプーンの柄を持ち、左手で食べ物をスプーンにのっけてその左手をスプーンの丸い部分にそえて固定したところに顔を近づけて食べるというのが、私の幼児期の食事スタイルでした。

 

 ある時「この子まだお箸使えないの?」と驚いた祖母がすぐに子供用のお箸を買ってきて私に持たせました。持ち方は無茶苦茶だったものの、すぐにお箸で物を食べられるようになりました。スプーンより向いていたのだと思います。

 

 念のためですが、今ではスプーンもフォークもお箸もちゃんと使えます。

 

 

 

どうやら両利きではなく両利かない

 

 私が右利きなのか左利きなのか、自分も親もよくわからないままで試行錯誤しましたが、どうやら二つの手にあまり差がないようです。

 そう言うと「両利きで器用」と思われがちですが、両手とも自由自在に上手く使えるのではなく両手ともコントロールが難しく不器用なので、「両利かない」が正確な表現です。

 

 

 

 ASDADHDだと皆不器用なわけではないのですが、ASDの「認知されたものを統合する時に混乱が起きる」という特徴が体を動かす際にも影響してうまくいかないんじゃないかとも言われています。

 

 

入力出来ても出力出来ない。

 読書は大好きです。早くから自発的に学習して文字の読み方をマスターして、どんどん図鑑や本、新聞を読み、読むものがなければお菓子の箱の裏側の原材料を読んだりして、とにかく文字とは幼少期からずいぶん親しくしているつもりです。漢字が好きで、小学校に入る頃にはフリガナ無しのシャーロックホームズの冒険を読めるくらいになっていました。

 

読めるけど、自分で書いてみたらなんか違う

 鉛筆を持ち、紙に向かうと急に頭の中にある文字が鮮明でなくなって不確かな物になります。あの漢字の横線は何本だったかな?と迷いながら書いて自分で書いたそれを眺めると、線が二本でも三本でも、どっちも正解のような、どっちも違うような気がしてわからなくなります。偏と旁、どっちがどっちにあるものだったかわからなくなることもしょっちゅうです。

 

 

文字の反転が起きてても気づかない

 これも脳の調子のいい時悪い時で起きたり起きなかったりしますが、鏡文字を書いてしまうことが未だにあります。「せ」「セ」「世」「う」「ラ」「人」「入」「今」「方」「コ」「事」「書」などが反転しやすいです。

「また鏡文字になってるよ。」と教えてもらっても、「え、そう?これ間違い?」と戸惑い、「ほんとだ!ごめんごめん」とすぐ間違いに気付けない自分が恥ずかしいため「この字、これでも構わんくない??」と逆ギレのようなことを言いだします。

 

 ラブレターに「こんなに入を好きになったのは初めてです。」と書いてしまって笑われたことは記憶に新しく、恥の多い人生と言わざるを得ません。

 

 

文字を書く行為は嫌いではなく、黒板や教科書のお手本を見て書いたり写経をするのは好き

 書くべき文字のお手本があるとちゃんと書けます。読字障害の方は文字の見え方が歪んだりかすれたり重なったりと特殊で大変な思いをしていると聞くので、それよりはずいぶん楽だと思います。

 

 

 

頭の中の文字を手に伝えて書くという運動を自動化できないのが問題

毎日たくさんの文字を書かざるを得ない義務教育時代の最後のほうは、頭の中の何か別の回路を使って一時的に上手くいっていました。お手本を見る機会も多いし繰り返し書くという訓練によってもずいぶん自動化したように感じていました。間違える頻度が少なく、書くスピードもアップして、これは手がしっかり覚えたのだと安心していました。

 

 学校生活を終えると、多くの人と同じように携帯やPCを使って文字を打つようになったため、紙に字を書くことはほとんどなくなりました。そうすると、しっかり文字を書く動作が染みついているはずと信じていた私の手は、その記憶をリセットしてしまいました。

 私にとって字を書くことは、自転車や水泳のように「一度マスターしたらしばらくやらなくても体が覚えている」という類のものではなかったようです。

 

 頭が手に伝えることが一時的に上手くいっただけでは「文字をマスターした」ということにならないようだと思っています。

 

 

 

 「最近スマホとPCばっかりだから、いざ紙に書こうとしたら漢字が出てこないんだよねー」は誰もが思い当たると思います。そんなのしょっちゅうだよと思うかもしれません。私はそこまで高レベルには至っていません。

 前は書けたのにド忘れしたのとは違って、常用漢字ではなく画数も多く難しすぎて、読むことはできるし雰囲気はわかるけど曖昧な形でしか思い出せない、細部はわからない漢字が誰しもあると思います。私にはそれが、よく見る簡単な漢字(勿論何度も書いたことのある字)でいちいち起こります。

 

 今からもう一度義務教育の時くらい毎日毎日文字を書き続ければまた何かの拍子にマシになるのでしょうけど、完全に自動化し、漢字の横線が何本あるのか、反転していないかどうか、迷わずに済むようになるかというと・・・難しいだろうと思います。

 

 

「何かの拍子に一時的に別の回路を使って上手くいった」ことはまだぼんやりとしか考えられていないので、整理が出来た時にまた。

 

 

 

 

 子供の頃「文字をどこまで正確に模写すべきか」ということについて深刻に悩んだ話も、また次の機会に。

 

 

 ASDの「積み重ねによる学習がなかなか身につかない」による影響もまた考えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

算数以前。

  LD(限局性学習障害)は、読字障害、書字障害、算数(計算)障害など、知的な問題はないのに限定的にある分野だけ極端に苦手というものです。私は、書字と算数がダメです。

 

 苦手というとマイルドですが、四則計算とか言って数字を自由自在に捏ね繰り回すことが出来ないという前に、数字を記憶することが出来ません。自分の電話番号や住所の数字は、かなりの時間をかけて保存できるのですが(それでも頼りない記憶でしょっちゅう確認が必要)、算数の問題のようにその場でパッと覚えて計算して、ということは出来ません。

 

 

 

「36個のおまんじゅうを6人で分けたら、ひとり何個ずつになりますか。」この問題だと、「おまんじゅ」あたりで36という数字が私の頭の中から消滅

 

 口頭で伝えられた文章題は、簡単なものでも何回も問題を聞き返さないといけません。何回聞いたところで計算できるかどうか怪しいので、大抵素敵な笑顔でごまかします。

 

 

 

「みさちゃんは、おつかいでリンゴを5つとミカンを5つ、モモを3つ買いました。全部でいくつですか。」モモの数が違う理由が気になってしょうがない。季節も気になって計算どころではない

 

 口頭とは違って紙のテストでは何度も数字を確認出来るため、数字を記憶する必要はありませんが、指を折ってゆっくり計算している間に違うことが気になってそれらの想像が頭の中に膨らんでくると、指を折っていてもどこまでいったのか忘れます。

 

 では文章題ではなくただの計算問題なら出来るのかというと、数字の記憶や気が散るという問題以前の「数字という概念」や「数字の視覚認識」でつまづいているらしく、やっぱり無理です。

 

 苦手の原因を探るためにはもっと遡って考える必要があります。

 

 

計算って、数字に何をしているのかイマイチわからないまま小学校を卒業

 数字が絵や地図記号のようなものだと思っていたため、「タイルが2つあるでしょ、ここにもう1つタイルを足すと3つになるよね?だから、2+1=3なのよ。」の

「だから、」以前の説明と、目の前で先生の書く「2+1=3」というお絵描きの関連が不明でした。

 

 今はさすがに先生が何を言いたかったのかわかっていますが、なぜわかったのかということもそのうち書いていこうと思います。

 

 数字の視覚認識の問題は書字障害にも関係してくる気がしているので、それもまた今度にします。

 

追加診断でアスペルガーと言われる。

ADHDにしてはなんだかなと診断を疑っていたら、何年か経ってから結構重度のアスペでもあるねと追加された

アスペルガー症候群、小児自閉症、否定型自閉症などはDSM-5ではスペクトラムとして捉えられていて、自閉症スペクトラム障害ASD】となっています。以降ASDと言います)

 ADHDASDは、少し前まで併存することはないとされていたためもあるのだろうけど、私がASDの診断を下されたのはつい何年か前、30歳の時です。

 その時もまた摂食障害パニック障害で大きな精神科に行き、二時間半に亘る心理検査や知能検査の結果、追加されたのでした。

ADHDも間違いないし、計算障害書字障害も大人にしては色濃くあるし、ASDもかなりのものだと思う。」

そう言われてすぐにASDについてスマホで検索したり、関連本をAmazonで購入して読んだら、ものすごくスッキリしました。ほんまや、ASDてそのまんま私のことやん、と。

 

 ADHDだろうがASDだろうが、空気が読めない、コミュニケーション能力がちょっとアレ、というのは変わらないので、得することはほとんどないのですが、なんとかうまいこと社会生活を送っているような感じの時(自分比)はADHDのわりに落ち着いたひともしくは、ASDのわりに新しいことを自ら戸惑うことなくやるひとになってたりしました。

 でも、ADHDの苦手なこととASDの苦手なことの両方でパニックを起こすので、パニックを起こす頻度が単純に考えると2倍?数字苦手なのでよくわかりませんが、そんな感じでありがたくはないもので。

 

ASDの強迫的なこだわりをもってADHDの衝動的行動をよりパワーアップさせているかもしれないという恐怖の疑惑(医師はそれを肯定せず)

 やるべきことを何もかも放っておいて、その時やるべきでないことを「やらなきゃ」と思い実行せずにはいられない、強迫性障害に似た症状ですが、ASDの集中力とADHDの行動力でそれはもうノンストップです。人に制止されると大人になってからでもパニックを起こすほど。

 

何のきっかけでかはまだ謎だけれど、現在ASDが優位で一切の「多動的衝動的」行動がなくなった

 不注意はなくならずにご健在でしょっちゅう物を失くしたり忘れたりはしますが、変化が怖い、新しいことしたくない、出来ればジッとしていたいと思う気持ちが強くて衝動的に動いたりはまずしません。急に旅に出たり引っ越したりといったことをしていた過去の自分が信じられません。

 

何を追加で診断されようと結局コミュニケーション苦手だし、算数ができないのと書字に問題があることと聴覚過敏、触覚過敏、共感覚で困った脳なのは変わりないので、そのCHAOS脳との付き合いかたをとにかく考える

 ASDのおかげで理解出来なくて困った人生のあれやこれもまた書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を知る第一歩。

人と何か違うと思ったら、宇宙人なのではなくADHDでLDと診断された

 私が小学生のころは、発達障害という言葉はまだ世間に浸透していなかったと思います。「多動性注意欠陥障害(ADHD)」と、大きくなってから摂食障害を患って受診した時に検査を受けて診断されました。それと、学習障害(LD)。

 

・LD(私の場合は計算障害と書字障害)だってよ!!

 学習障害と言われたのが、ものすごく嬉しかったです。私は小学校一年生ですでに算数がわからなくなって、中学の数学なんてロシア語だかシンハラ語だかで授業を受けているような感覚になっていました。

 親も先生も、私になんとか四則計算の簡単なものくらいマスターさせようと頑張ってくれました。それはそれは、申し訳ないほど努力をしてくれました。

 

 それでも最終的に、

「あんたは怠け者だ。やる気がない。やる気があれば、これだけ丁寧に教えられて繰り下がりの計算が出来ないはずがない。」

と結論づけられ、見放されました。実際はこんな生ぬるい言葉ではなく、ありとあらゆる人格否定の言葉を投げつけられ、母親に至っては「死んでしまえ」と泣きながら私の頭をノートで叩いたほどでした。よっぽど失望したのだと思います。

 

 私も、そんな親に負けないくらい自分に失望していました。自分では必死に努力しているつもりなのに、どんなに説明を受けてもわからず、それどころかジッと話に集中できずに他のことが気になってしまって関係のない質問をしてしまったり(このへんはADHD)、確かにどう見てもやる気のない子だと、落ち込みました。私以外の人はみんな努力が出来るのに、私は努力をしたつもりで本当には出来ていない根っからの怠け者なのだと思って生きていました。

 

 それが、脳の問題で出来ない・・学習障害のせいだってよ!!!私の性格の悪さのせいじゃないんやん!!

 

 ものすごく嬉しかったです。でもすぐに、みんなが普通に学習すると理解出来ることが本当に自分だけ理解出来ていないのだと、根本的に脳の構造(使い方)自体が違うのだという事実に怖くなりました。

 

 みんな、どうやって数字を理解してるんだろう???そもそも私は数字をどう捉えているのだろう???インターネットで検索しても、なかなか納得できるものは出てきませんでした。学習障害といっても、苦手な箇所や症状、度合いはそれぞれみたいで、脳の反応も結局十人十色なのでしょう。

 

 なので、自分で分析して理解し、そのうち日常の不便を解消してみせます。いつの日にか。無理はせずに、趣味な感じで。

 

 

 

 ADHDについてはまた今度にしよっと。

 

 

ごあいさつ。

 生きづらい、生きてることが息苦しくて、というのはたくさんの人が経験していることだと思います。私もずっと生きづらくて、人と関わると悩みしかなくて、早いことこの輪廻から脱することが出来ないかと宗教的なことを考えたり考えなかったりして、なんとか30年以上生存のよくある奇跡です。

 

 ずっと自分の「暗黙の了解がわからない」「努力しても覚えられない類のものがある」「表情の読み取りの失敗」「相手の質問の意図が分からない」「冗談も嫌味も通じない」などたくさんある、人と関わるのが向いていないとしか言いようがない特徴をなんとか隠し通す方法を見出すことだけを目標としていました。

 

 ところが昨年、ひょんなことから私は世間の難しい関わりから逃げ、「これからは自分に嘘をつくのはやめて好きなことをして楽しく生きていいよ」と言ってくれる人と暮らしだしました。わかったふりをしてカッコつけて、心の中でビクビクする生活は終わりました。

 そうすると、自分が何をわかっていないのか、どのへんに問題があって生きづらかったのかがどんどん明確になってきました。思う存分「それ、わからない」「どういうこと?」「それは〇〇という意味?」と言える、(愛情を持ってそれに応えてくれる)定型発達の彼といると、脳が無茶苦茶に絡まってもすぐにほどくことが出来ます。その安心感から、予定外のことが起きてもパニックに陥って機能停止してしまうことがほとんどなくなりました。

 

 せっかく自分のことがわかってきたので、これを機にどんどん脳を整理整頓していくのがよろしいとの考えからこのような考察ブログを開設するに至りました。

 もし天使のイタズラとかいう甘美なものに導かれてここにやってきて、そのご本人もしくは家族の生きづらさと共通するところがあるとかで、頭のスッキリや興味深い「へぇ」に繋がってくれるようなことがあればとても嬉しく思います。

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