脳のCHAOSを考察する。

発達症併発(自閉スペクトラム・ADHD・LD)、共感覚を持つ私の見ているもの

罪と罰。

 小学校に入ってすぐのこと。私が休み時間に次の教科の教科書やノートを準備していて、その時に手からすっぽ抜けた下敷きが、近くで何人かの友達と遊んでいたM君の顔に直撃してしまいました。

 

 M君はとても怒っていました。「もう少しで下敷きの角が目に入るところやったやんか!」と言い、私の頭をグーで殴りました。私はとても悪い事をしてしまったと思い、「ごめんね」と謝りました。彼は、「一生許さない」と言いました。

 

 その日の昼休み、M君はうしろから突然私の背中を殴りました。学校帰りにも追いかけてきて「ランドセルそこに置け」と言って、また背中を殴りました。

 

 「痛い」と言うと、

「おまえの下敷きが俺の目に当たってたら、目が潰れるとこやってんぞ!?おまえが悪いのに何で痛いとか言うてんねん!」

とM君は怒って言いました。

 

 

 

 私は、自分の不注意でしてしまったことは、たとえ相手に実際には傷を負わせていなくても、謝るだけでは済まず相手の気の済むまで罰を受けるのが当たり前なのだな、とM君の言葉から理解しました。

 

 

 「毎日100回殴るからな!」とM君は宣言し、100回はいかないものの毎日背中が痛くて椅子の背もたれに背中をつけられないくらい私を殴りました。

 私は、殴られるたびに謝りました。

 

 

 一度何か失敗を犯すと大変なことになると学びました。今後、そのつもりはなくても誰か人を傷つけたり傷つけそうになったりすると、どんどん罰が増えていくのだと思って怖くなりました。

 私は、元々ガチャガチャ動くほうではないけれど、それまでよりもっとソロリソロリと動くようになりました。

 

 

 M君は幸い三学期に入る頃には私を殴ることに飽きてくれたので、ずっとは続きませんでしたが、当時私は自分の過ちのせいで一生殴られ続けるのだなぁと諦め受け入れていました。

 

 

 

 その後、M君ではない何人かの子に日常的に暴力を振るわれることがありましたが、私は毎回自分が何かして相手を傷つけたのだと解釈し、相手が飽きるまでジッと受け入れていました。

 

 

 私にはわからない「人間関係のルール」がとてもたくさんあるらしいことに気付いていたので、私以外の「ルールをわかっている子供」がすることは正しいはずだと思い、痛いとか文句を言うのは私のわがままなのだと信じていました。

 

 

 高学年になって金銭に関わるいじめに遭った時はどうしようもなくなって抗議しましたが、暴力を受けて自分が痛いというものに関しては、大きくなっても「何かの罰で、拒否する権利のないもの」と受け入れるのが普通になっていました。

 

 実際、暴力をふるう人は私が悪いということを必ず口にしました。私は、世の中理不尽だらけというか理不尽なことしかないと思っていたので、その「私が悪い」という理論が正しいかどうかよく考えることはありませんでした。

 どう考えても私のせいじゃなくない?と思うことがあっても、私はどうやら人とズレているらしいことが子供の頃からよくわかっていたので、「でも私が悪いのだろうな」と思い直して納得するようにしていました。

 

 

 

 聴覚過敏や触覚過敏、変化が苦手なことなどで日常的に「耐え難い不快」が多いため、何が「我慢すべき不快」で何が「我慢しなくていい不快」なのかわからないというのもとても大きな問題でした。

 

 

 発達障害を持つ子供がいじめに遭っている場合、いじめに遭っているのだとわからず受け入れている可能性があり、周囲が気付いて「それは受け入れるべきことではない」と教える必要があるかもしれません。