脳のCHAOSを考察する。

発達症併発(自閉スペクトラム・ADHD・LD)、共感覚を持つ私の見ているもの

線と点。

 ひとは、全ての情報を結び付けてそれらを処理し、理解し、過去現在未来の自分の糧にしていくようです。それらの全ての情報は線で繋がり、蜘蛛の巣のように複雑に美しく広がり続け、年齢を重ねるごとに臨機応変が様々なところで出来るようになり、新しいシチュエーションへの対応がよりスムーズになるようです。

 

 

 私は、情報を線で結ぶことが苦手です。すべての情報は点で、その点を手動でカテゴリ分けして、なんとか類似のものを探して集めて脳のファイルに放り込みます。

 カテゴリ分けされたファイルは、ひとつひとつ独立していて、繋がりを持ちません。

 

 その場で今起きていること、その場にいる人の状態を見て、類似の状況が起きたことがなかったかファイルの検索をします(手動)。「これっぽい」と判断したファイルが見つかれば、そのファイルの状況の時に取ると決めている行動を実行します。

 

 

 この手動の検索は、間違えることが多々あります。なぜなら、カテゴリ分けが精密でなく、人の細かな表情や一人一人違う言葉の使い方、ちょっとした状況の違いに対応できないからです。極めて機械的、古いタイプのコンピューター的です。

 

 

 

 線で繋がってると、過去の経験を手繰り寄せて、しかもこことここが重なり合って絡まって、などと線と線に相関性を持たせて、ちょっとした状況の差も、すぐにネットワークに組み込まれて過去の自分の学んだそれらの中になじんで織り込まれるために(しかもこれらは全て自動?どれだけ高性能?)人間らしい柔軟な対応ができるのではないでしょうか。

 

 

 ひとを、「個人個人、全て違う人間」と考えるとファイルが膨大な量になって大変なため、出会った全てのひとをカテゴリ分けしてどこかのファイルに放り込みます。

 カテゴリ分けされたファイルには、ひとつひとつ、「このファイルの中に入っている人への私の対応マニュアル」が設定されています。

 それらは、年齢を重ねて学んだことが増えると、「より良いマニュアル」としてたまに更新されます。

 

 「この人はどのファイルに入れたらいいのかわからない」というひと現れると、その人を入れるべきファイルが決定するまで「保留」というところに置いて置きますが、その間私はそのひとに対して挙動不審というか、なんともおかしな、人格の安定しない態度を取ってしまうことになります。

 

 

 くどいようですが、それらは全て手動で行われています。

 

 

 この面倒な脳に、いいことはないのでしょうか?今度はその「いいこと」について考えてみようと思います。